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(日⇔英)翻訳不可能!

 教育熱心なお母さんは、子供によくこんな感じで英語を教えています。
 「猫は英語でなんというの?」「じゃあ犬は?」
 このように教育されると、日本語にある言葉は英語にもあると子供は自然に考えるでしょう。実は私も最近までそう考えていましたが、これは大間違いなのです。
 
 異なる二つの言語システム間において、言葉の意味は1対1で対応しません。cat⇔猫、dog⇔犬、このような感じで、英語と日本語の言葉の意味が対応しているわけではないのです。それどころか、ある言語システムにおいて当たり前に存在しているものが、他の言語システムでは存在しないということも起こりうるのです。

 例を出して考えてみましょう。気候、環境が著しく違う二つの言語システム間において、片方にはある言葉が存在するが、もう片方にはそれと同じ意味を差す言葉が存在しない例です。

 アラスカ、カナダなど、極北ツンドラに居住するイヌイットの人々の言葉には”白”を表現する言葉が数十あるそうです。すべてが真っ白な雪と氷の世界では、白さの違いの識別なしに生活はできません。道案内も方角を示すこともできないでしょう。もしこれらの言葉を日本語に翻訳する場合、すべて白の範疇(守備範囲)に入ってしまいます。強いて表現するなら、少し明るい白とか、相当黒い白などと表現せざるを得ないでしょう。しかし、イヌイットの人々の感覚ではこれらは、白の範疇に入らないどころか、まったく別の色と認識しているはずです。

 これは逆の例を考えれば分かりやすいと思います。日本では魚の呼び名は非常に多くあります。これは、日本人が魚と深い関わりを持って暮らしてきたことを示しています。
 魚と深い関わりを持たずにきた社会や地域の言葉に魚を細かく指し示す言葉はありません。一言、”魚”で終わるかもしれません。これは日本語に白い色を差す言葉が「白」しかないのと同じです。
 日本では魚の種類の違いは強烈に意識されます。特にお寿司屋さんにおいてはそうです。あなたがマグロを注文したのに、いわしが来たらどうされるでしょう。「これ、ちがうよ」って店の人に言って「同じサカナやん!」と言い返されたらどうしますか?
 寿司屋において魚の種類が重要なのと同じように、イヌイットの人々の社会において白の違いは重要です。「魚」「白」、この言葉を翻訳するだけでも大変です。
 
 言葉はその情況(コンテキスト context )つまり、どのような環境、背景で使われているかを知ることによって理解されるのです。
 
 外国語の言葉を覚えていくときに、その意味とまったく同じ意味の日本語の言葉はない、ということを忘れてはならないと思います。ですから、なるべくイメージやニュアンスを汲み取るようにするべきではないかと考えます。

 このテーマで他にもいろいろ書きたいことがあるのですが、短くまとめるのは至難の業です。上に書きましたことは「構造主義」に関連することの一つです。この構造主義・・・、めちゃくちゃおもしろいです。
 ソシュールという言語学者(構造主義の父と言われています)が、「ことばとは、『ものの名前』ではない」と言ったり、フーコーという哲学者が「健常と異常という考え方はごく最近のことだ。昔からあったのではない。」と言ったり、レヴィ=ストロースという文化人類学者は「人間が近親姦を禁止する理由は『贈与』にある。」と言ったり、一般的な常識を覆すことがたくさん出てきます。
 これらは英語を勉強する上でも大いに役立ちます。

 イチ押しの本を紹介します。一読していただければ幸いです。
『寝ながら学べる構造主義』 内田 樹 著  文春新書251





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